2019.03.01<大槻章三郎物語>その3 そして再び仁淀川へ
仁淀川をきっかけに川下りのプロガイドになり、海外の川でも経験を積んだ大槻さんは、ついにカヤックのワールドカップへ……と思いきや、またもや回り道。「試練がときどきやってきて、俺は運がいい」という彼の物語、最終回です。
~前回までのあらすじ~
四国で川下りのエキスパートになった大槻さんは、外国でラフティングガイドの経験を積もうとオーストラリア、そしてニュージーランドへ。それまでの人生にはなかった苦しいことや楽しいことを経験し、人として大きく成長しました。そして彼は次なるステップへ、そしてワールドカップへ。(※掲載画像はすべて大槻さんから借用)
マネージャーとして雇われ、経験値を上げた
大槻:ニュージーランドから帰国して、さらに1年間大歩危小歩危(おおぼけ・こぼけ 高知・徳島両県をまたぐ吉野川の渓谷地帯)でラフティングガイドをしたのですが、その時点である程度、俺の夢は叶ってしまいました。大歩危小歩危ではラフティングツアーのリーダーができるようになったし、外国でもガイドの経験を積みました。じゃあ次は、と考えたとき、マネージャーみたいなことをしたいと思ったんです。
――ラフティングツアーを運営する側ということですか?
大槻:そうです。関東のほうの有名河川のラフティング会社がマネージャーを必要としていたので、そこへ行きました。お金とツアーの予約に関わること以外、ツアーの安全管理や備品管理、ガイドへの指導などを任されました。いろんなことを思い出します。
――記憶に残っているということは、大槻さんにとって簡単ではなかったと(笑)。
大槻:そのとおりです(笑)。そこは集客規模がかなり大きい会社でした。しかし、アウトドア業界とは関係ない人がいわば「ビジネス」として開業したせいか、これまで経験した会社とは異なる雰囲気でした。
――どうやら、また試練の日々になったんですね。
大槻:そうなんです、ちゃんと試練が来るんですよ、自分で作っているのかもしれませんが(笑)。衝撃的なこともありました。台風がきて、堤防が決壊しそうなくらい川が暴れた日があって、当然ながらラフティングを中止にしたら、「お前、どういうつもりだ! 」とボスがつかみかかってきて、ガンガン揺さぶられました。お盆の行楽シーズンだったので、「中止のせいで今日の300万円が吹っ飛んだんだぞ! 」と。耳を疑いました(笑)。
――こちら四国の大歩危小歩危のラフティングツアーでは、川の水量によって下る区間を限定したり、中止にしたりとルールがきちんとありますが、随分と様子が違いますね。
大槻:そんな会社だけど、ガイドやスタッフは25人ぐらいいて、彼らの教育などをやらせてもらいました。その地域は週末になるとパーティーが多かったので、酔っぱらって河原で寝たまま出勤しないなど、急に平気で仕事を休むガイドもいました。どれだけ彼らを叩き起こしに行ったことか(笑)。川下りやガイド業とは何かを理解していない人が多い状況でしたね。川の右岸はどっちとか、エディとは何かとか、川下り用語の解説から始める感じでした。
――そんな状況なのに踏みとどまるのが大槻さんらしいですね。
大槻:強烈に良い経験でしたよ、毎日がハプニングで面白かったです(笑)。そういうところで、俺が持っているものを何とか伝えていこうとがんばったのはよかったですね。普通のラフティング会社での5年間分の経験をしたんじゃないかな。そして俺は、「ラフティング、やり切ったな」という気持ちになりました。
世界大会で勝つためには、世界大会と同じような環境が必要
大槻:いまは思わないんですが、当時は「ラフティングツアーには点数がつかない」ことにむなしさを感じ始めていたんです。自分としては、「このラフティングは今シーズンでベストのツアー」と思っても、お客さんは「今日のツアーは97点」とかつけようがない。比較できないですから。ラフティングについては、青春や人生を捧げる対象ではなく、生業でいいなと思うようになりました。
そのころ俺は河井継之助(幕末期の越後長岡藩家臣で、司馬遼太郎の小説「峠」の主人公)のことが好きで、その生き方に影響されていて、男として生まれたのなら何か名を残したいと思っていました。
――そこでついに、フリースタイルカヤックで世界を目指すのですね。
大槻:仁淀川で初めてカヤックに乗ってから8年ぐらい急流を下ってきたし、ラフティングガイドのなかではカヤックが上手いほうでした。それに、フリースタイルカヤックってマイナーなスポーツなので、命がけでやれば日本代表になれるんじゃないかと。27歳のとき、本格的に選手としてチャレンジすることにしました。
――マイナー競技で世界を目指すとなると、練習環境や資金のことなど、なにをどうしたらいいか私には見当もつかないのですが……。
大槻:俺は練習環境を求めて、長瀞(埼玉県で荒川上流部)のラフティング会社に入りました。そこは社長がカヤック選手上がりで、スタッフも心根はラフティングガイドではないんです。カヤックやカヌーの選手をしたくて、生業でラフティングガイドをする人たちが集まっていました。会社の目の前にはフリースタイルカヤックの大会が開かれるホール(瀬のなかにある大きな落ち込み)があるので、就業前後やラフティングツアーの合間にカヤック練習ができました。会社は大会があれば休みをくれたし、遠征費も少し補助してくれました。
――そんな会社があるのも驚きだし、そこに入れるなんて運がいいですね。
大槻:いや、本当に。それからはスポ根みたいな日々です。可能な限りフリースタイルカヤックを練習しまくって、稼いだお金は道具や遠征費などに全部貢ぎました。ラフティングツアーがオフになる冬は、当時最先端の自動車工場で期間工などもしました。給料がよかったので。
――自然のなかで暮らしてきたから、工場勤務はきつかったのでは?
大槻:いえ、結構好きな仕事だったし、いい経験でした。この国の基幹産業ってすごいです。効率的に人間を動かすとはこういうことなのかと。何キログラム以上は手で運んではダメなど、仕事上での「決まり」の数も半端じゃなかった。生産時間を1秒縮めるために工具を置く場所さえ決まっていた。先端企業というのはここまでやるのかと驚きました。
――フリースタイルカヤック選手としての日々はどうでしたか?
大槻:どうやったら上手くなるかを常に考えていましたが、お金があれば上手くなるということも実感していたので、いかに効率よく充分なお金を稼ぐかも考えていました。お金は大切です。貯えがあれば練習に集中できるし、遠征もできます。
――海外遠征もしたのですか?
大槻:1ヶ月ぐらいでしたけど、スペインとフランスで武者修行してきました。試合に出るのではなく、純粋に練習のため。そういうのは日本のフリースタイルカヤック界では珍しいんですよ。そして、あの地で俺は、「全然違うのだ」とわかったんです。
――違うとは?
大槻:それまで俺が日本でしてきた「自然な川の荒瀬で練習する」のというのは、違うのだと。世界大会、代表的なのはオリンピックですが、そこで競技するアスリートたちは、オリンピックと同じ環境で練習しています。フリースタイルカヤックの競技も同じで、ワールドカップに出るような選手たちは、人工コースで練習しているんですよ。
――オリンピックでのスラロームカヤック・カヌー競技は人工の急流で行われています。フリースタイルカヤックのワールドカップもそういうことなんですね。
大槻:スペインとフランスの人工コースで練習して、俺はかなり進歩しました。だから、日本でも同じやり方をしようと。当時、この国にカヤック用の完全人工コースはまだなかったのですが、北海道や山口県にそれに近い環境の、「半人工コース」の川がありました。なので、ラフティングガイドや期間工でしっかりとお金を稼ぎ、いい練習環境の川へと遠征して集中してカヤックを漕ぐというやり方を選びました。
――そして2016年に日本代表に選ばれるわけですね。
大槻:実力的にはその2、3年前から日本代表になれそうでしたが、メンタルの面や時の運で勝てなかった。でも、日本代表レベルなのに選考会で何度も失敗したからこそ、フリースタイルカヤックが上達していきました。あと一歩で負け続けて、とにかく悔しくて、死に物狂いで練習しましたから。ちょっと正気じゃないくらい。一流のアスリートみたいに、「一秒を削るためになんでもする」みたいな。
――肉体的にも精神的にもかなり鍛えられたのですね。
大槻:そうなんです。日本代表になったときは心技体が一番充実していました。「いつもの半分ぐらいの力を出せば代表になれるでしょ」ぐらいの状態で代表の選考会に臨めました。選考会で何度も失敗したおかげでメンタルがとても強くなれたので、アルゼンチンのワールドカップでは全く緊張しませんでした。しかも追い風がありました。
――いったい何が?
大槻:フリースタイルカヤック・カヌー界は、「フリースタイルをオリンピック競技に」を目標にしています。その絡みでいろいろあって、結果的にアルゼンチン大会のときには有力選手が別の大会との間で分散することに。つまり強敵が少なく、しかも俺が一番充実しているタイミングで大会に臨めたんです。そして世界第二位。神さまからのご褒美だと思いました。仁淀川でのカヤックの出会いから、苦労してラフティングガイドになり、外国で泥まみれになって働いたり、マネージャーとして奮闘したりと、そんなこんながすべて、ワールドカップの表彰台につながっていたのだなあと思いました。
――フリースタイルカヤックのワールドカップで、日本人としては前人未到の第二位というのは本当にすごい。強豪がガチに揃っていなかったとはいえ、とにかく2016年の大槻さんは世界で二番目に強い男という記録はずっと残るわけですから、素晴らしいことだと思います。
サツキマスのように、人生の大海原で成長し、仁淀川に戻ってきた
大槻:戦いを終えると32歳になっていました。これ以上カヤック競技を続けてもやばいなと思って、普通の企業に就職しました。ラフティングやカヤックとは無縁の会社です。しかし、間もなく椎間板ヘルニアになってしまいました。大きな会社でしたし、仕事の内容も給料も福利厚生もよかったのですが、力仕事を避けられない職場だったので、このままでいいのかと悩んでいたんですよ。そんなとき、カヤック仲間から、スノーピークがラフティングガイド経験者を探しているという連絡があったんです。
――またまた運がいいというか、ドラマですね。
大槻:ラフティングやカヤックに10年以上を捧げたのに、普通の会社勤めはなんだかなあという思いもどこかにありましたし、スノーピークで経験を活かせるのならこんないい話はないと。
――そしてなんと配属先は仁淀川。
大槻:初めてカヤックを漕いだこの川に戻って来るなんて、何かに呼ばれているのかと思いましたよ。
――カヤックを初めて漕いだときから13年を経て、再び仁淀川で大槻さんの新たな人生が始まりました。これからの抱負みたいなものはありますか?
大槻:抱負じゃないですけど、仁淀川って最高だなと思います。日本や海外でいろんな清流や急流を下ってきたけど、そのなかでも仁淀川って、ラフティングやカヤックなど川遊びするのに素晴らしい環境です。俺が大好きなこの川をぜひ楽しんでもらいたいと思っています。2年目を迎える「スノーピークおち仁淀川」でもいろんな趣向でみなさまをお待ちしていますので、今年も一緒に仁淀川で遊びましょう!
■スノーピークおち仁淀川
(仁淀ブルー通信編集部員 大村嘉正)
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