2018.12.14<大槻章三郎物語>その1 川に愛されるアイツの人生は、仁淀川から始まった

<大槻章三郎物語>その1 川に愛されるアイツの人生は、仁淀川から始まった

仁淀川に流れ着いたことで人生の歯車が回り始め、「川の民」として世界にまで活躍の場を広げた男がいます。現在仁淀川でラフティングガイドをしている彼に、その数奇で熱い人生を語ってもらいました(3回連載)。若者たちよ、こんな生き方もあるぞ!

 人気のキャンプ場『スノーピークおち仁淀川』のスタッフで、ラフティングツアーの責任者が大槻章三郎さん。彼はラフティングガイド歴14年のベテランであり、カヤックでの激流下りについても一流の腕前です。急流の荒瀬にとどまってカヤックでサーフィンしたり、側転したり、空中で一回転して技を競う「フリースタイルカヤック」のワールドカップでは日本人初の銀メダルを手にしました。
 そんな彼の人生の転機となったのが、実は仁淀川。本人曰く、何者でもないあんちゃんが、放浪の末たどり着いた仁淀川をきっかけに、自分を見つけ、少し大人になり、世界に羽ばたき、そして運命のいたずらか仁淀川に呼ばれるように戻ってきて、大好きな川を仕事場にします。
 素晴らしい清流は人生を変え、豊かにする――それを証明した彼の14年間についてインタビューしたのですが、語られたのはかなり濃くて熱いストーリー。とても1回では紹介しきれないので、3回の連載でお届けします。

何者でもない俺は、ヒッチハイクで旅に出た

――私が大槻君に初めて会った、というか目撃したのが仁淀川の河原でした。2004年の5月だったよね。あのとき私は友人と、のちに大槻君の先輩ラフティングガイドになる二人とカヌー下りに来ていたのですが、大槻君は小浜キャンプ場の河原でキャンプしてましたよね。「おー、彷徨える若者がいるなあ」と、私は遠巻きに眺めていた。なんであそこに?

大槻:俺は落ち着きのない若者で、ギリギリで入れた公立高校に通って、部活とかに興味もなくて、ずっと学校になじめない子供でした。
 高校を卒業しても就職しなかったんですよ。あまりにも、やりたいことがなかったので。いや、一瞬だけ就職したかな。車の工場になんとなく勤めたけど、すぐ辞めちゃって。さらに彼女にもふられて、「こんな街にはいられねえ」となった(笑)。
 そのころよく読んでいたのが椎名誠や野田知佑の本。とくに野田知佑さんの影響はデカかった。ヒッチハイクで放浪したって話に、グッときてた。
 で、「こんな街にはいられねえ」から俺もヒッチハイクすることに。19歳の春です。行き先は四国の四万十川か仁淀川。野田さんのカヌーのエッセイに、しょっちゅう登場する川だったから。それから、宮崎弥太郎さんの本(仁淀川漁師秘伝―弥太さん自慢ばなし )も愛読していたので、その影響もあった。

article165_01.jpg大槻さんがたどり着いたとき、仁淀川は美しい新緑の季節だった。

――どこからヒッチハイクを始めたんですか。

大槻:生まれ育ったのは仙台。安いザックを買ってテントや寝袋を詰め込んで、仙台から旅に出た。〈19歳の僕ちゃん〉なんで、すぐに乗せてくれるんですよ。悪いことをしそうにも、危険な匂いもないし。

――仙台から仁淀川までどれくらいかかりましたか?

大槻:どれくらいだろう? 結構だらしなく、意味もなく寄り道してました。諏訪大社(長野県)の祭りに寄ったり、淡路島を歩いたり。淡路島では、島だから小さいだろうと思って歩き始めたんです(笑)。でも淡路島、結構デカイ。
 無意味、無目的すぎて、ヒッチハイクの道中の記憶はあまりないです。公園のベンチで寝袋に入って寝たり、河原で適当にキャンプしたり。たぶん1ヶ月ぐらいで、いの町に着いたんじゃないかな。
 いの町の仁淀川の河原ではちょうど「紙の鯉のぼり」をしていた。5月で、パーッと青空で、東北出身の俺には、T シャツでも暑いというのが驚きでした。そして仁淀川のきれいな流れも。ああいう透明な流れと明るい光はすごく印象的だった。
 そして仁淀川が結構気に入っちゃって、いの町のどこかの河原でテントを張りました。仁淀川って川文化があるじゃないですか。川辺の人たちは用もないのに河原を散歩するでしょ。で、おじさんが俺に声をかけて釣り竿を貸してくれたりして、やたらと居心地がいい。それでだらしなく過ごしていたんですが、「そうだ、おれは宮崎弥太郎さんがいる越知町へ行きたかったのだ」と思い出し、旅を再開したんです。

――それで、小浜キャンプ場にたどり着いたと。

大槻:でも、越知町に着いても、あても、やることもない。とりあえずテントで野宿してたら、大村さんたちが俺を見つけた翌日、コーイっちゃん(ラフティングガイドで、彼もわたくし大村の友人)が来たんです。若いカップルの客をつれて、仁淀川のカヤックツアーをしていた。
 で、〈わ、カヤックだ!〉と思って、「こんにちわ」って声をかけたんです。野田知佑の本を読んでいたからカヤックやカヌーに興味があったけど、乗ったことがなかったんで。
 いま考えたら、邪魔なガキですよね(笑)。でも、コーイっちゃんは「カヤック、乗ってみるかい」と誘ってくれた。だから俺のカヤック人生は仁淀川で始まったんですよ。

article165_02.jpg仁淀川で「川で生きる」気持ちが芽生え、14年を経て、広い世界を知って、仁淀川に戻ってきた。お前はサケ!?

ラフティングガイドという職業を知り、日本一の激流へ

大槻:そしてコーイっちゃんは、「そもそもあんたは、仁淀川の河原で何してるんだ」と聞いてきた。俺が放浪していると知ると、「こんなふうに川下りをガイドする仕事があるんだよ」と教えてくれた。

――大槻君に同じ匂いを感じたんだろうね。川や自然が好きという。

大槻:子供の頃から、どんな遊びよりも釣りや川遊びが好きでした。それ以外やりたいことがないし、「川で遊んでお金を稼げないかな」と無茶苦茶なことを漠然と考えていた。だからコーイっちゃんの話に、びっくりしたんです。
「何それ、川下りして金をもらえるわけ?」って。
すぐに、コーイっちゃんが教えてくれたところに電話して、ラフティングガイドになる講習を受けることにした。そのラフティングツアー会社がある吉野川(高知県大豊町)までは、またヒッチハイクで行きました。

article165_03.jpg大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)のラフティングガイドは、高い技量を要求される。川の流れを最も熟知する人間たちだ。

――そして大槻君は、ラフトボートでツアーできる川としては「日本一の激流」と言われる吉野川の大歩危峡・小歩危峡で、老舗ラフティング会社のラフティングガイドになるわけですが、ガイドになるまですごく苦労してたよね。先輩たちにかなり厳しく指導されていた。

大槻:俺は人としてあまりに未熟すぎて、ガイドになるまで1年かかった。ある程度人生経験を積んだ大人で、30代の元気さがあって、運動神経がよければ3ヶ月ぐらいで大歩危・小歩危のラフティングガイドになれるんです。
 でも、1年もかかったのが結果的には良かった。大村さんもご存知だと思うけど、最初は俺、こてんぱんに否定されてたじゃないですか。

――来る日も来る日も、でしたよね。私は大槻君の先輩ガイドたちのことをよく知っているのですが、普段は温厚な人も、あのころの大槻君にかなり厳しかった。叱責されている大槻君を見ていて、私は「○○さん、本当は怖い人だ」とビビったことがある(笑)。

article165_04.jpgこんなタフなヤツらと、激流漬けの日々を送った。

大槻:おかげで俺はいろいろ気づけた。それまでは「俺はダメなやつじゃないか」と思ったりしたけど、そうじゃなくて、ただ変わった人間で、そしてあまりにも世間知らずなんだと。それからは、「俺は変わってるんだから、気をつけなきゃ」と、なんとかやっていけるようになった。

――先輩たちにしても、アマゾンで樹上生活していたとか、ちょっと変わった人ばかりだったけどね。それにしても、1年もかかるなんてよく耐えましたね。

大槻:いまの俺は、ラフティングガイドのことを一生続ける仕事だと思っています。そうなったのは、ガイド資格をもらえない期間が長かったから。
 職人だってそうですよね。いまどき、最初から理詰めで教えれば、例えば寿司職人には数ヶ月でなれるそうです。でもそんなこと、昔の寿司職人の師匠だって知ってたんですよ。でも、3ヶ月ぐらいで職人になったら、一生の仕事として大切にしないんじゃないかな。何年も道具さえ触らせてくれない、なんていうことがあるから、初めて包丁握ったときに感動して、「俺はこれを一生やるんだ」と思える。
 あの、わけのわからない、理屈の通らない期間は、「やりたい」っていう気持ちを育てている期間だと思う。

article165_05.jpg「カヤックを始めたのがこんな川だから、こういうものだと思ってました」と大槻さん。

神のご差配で、カヤックの世界へ

――それにしても、いきなり日本最高峰の激流下りをするなんて、怖くなかった? ラフトボートで下るならまだしも、小さなカヤックでの激流下りも毎日のようにやってたよね。

大槻:カヤックしかやることがないでしょ、あの秘境の峡谷では(笑)。しかも近所の川は激流だらけ(笑)。でもあれって、神のご差配だったと思う。だって、ガイド修行を始めると同時に、「このカヤックを勝手に使えばいい」とマイボートを支給されるなんて。そして、カヤックを教えてくれる同僚がいっぱいいた。出社前、朝の6時ぐらいから通称『大歩危ショートコース』の5㎞をカヤックで下り、ラフティングツアーで川を下ったあとも、日が暮れるまでまた『大歩危ショートコース』でカヤックを漕ぐというのが普通だった。そして、みんなアホみたいに飽きることなく毎回楽しそうに激流にもまれていた。それほどカヤックに夢中の連中が揃うラフティング会社はあまりないんですよ。

――でも、野田知佑さんの本がきっかけでカヤックに興味を持ったんでしょ。野田さんがやっているのは、キャンプしながら比較的おとなしい川を下っていく『ツーリングカヤック』ですが、『ホワイトウォーターカヤック(激流下りカヤック)』に戸惑わなかった?

article165_06.jpg仲間と一緒に、カヤック三昧の日々。

大槻:野田知佑のやつとは違うんだと一瞬でわかった(笑)。でも、これもやりたいと思った。あのシーズンは雨が多くて吉野川の水量がめちゃくちゃ多い日ばかりで、カヤックではすごい目にあったけど、危なくて嫌だとは1ミリも思わなかったですね。逆に、大歩危・小歩危の激しい流れに心つかまれました。こんな世界があるのかと。こんな世界にいる俺、カッコイイなと。19歳だったから、頭がぶっ飛んでいたんでしょう。

――最初のラフティング会社には結局2年しかいなかったんだよね

大槻:2年だけど、あれは俺のバックボーンですね。人間性がなってないことを教えてもらったし(笑)。ホワイトウォーターカヤックにしても、あれだけベテランたちにみっちり教えてもらうなんて、いま思えばすごく贅沢。
 俺は、新人ラフティングガイドを教えるときは座学から始めるんですが、それは最初の会社のガイド講習にならっているから。きちんとテキストを作り、それにそって教える。ラフティングガイドの講習って、口伝みたいな感じでやっている会社もけっこうある。で、各ガイドの理解が異なっていたりする。

――そのあとは、同じ吉野川にある別のラフティングツアー会社に移籍しました。

大槻:最初のラフティング会社は母体の会社の一部門でしたが、次の会社は純粋にラフティング屋でした。川の下り方や内容にすごくこだわっていて、お客さんをいかに楽しませるかを強く考えている会社でした。最初の会社で基礎を学び、次の会社ではそれを発展させて、アウトドアガイドとして鍛えられた感覚があります。
 それから、その会社にはフリースタイルカヤックの名手がいて、彼からたくさん学ぶこともできた。俺のカヤックのスキルがかなり上がったと思います。
 で、トータルで4年間ラフティングに関わると自信がついてきて、ちょっといい気になるんですね。俺が一番うまいだろとか、図に乗ったり。そして、流れとしては海外挑戦に憧れるわけです。サッカーの中田英寿みたいにイタリアで成功して帰国、みたいな。俺も海外組になりたいなと思ったんですよ。

――で、オーストラリアでラフティングガイドをしたんだっけ、ケアンズのタリー川?

大槻:オーストラリア、タリー川、確かにそうです。でもガイドをするどころか、いろいろ貴重な体験をすることに……(続く/次回は1月25日配信予定です)

article165_7.jpg大槻君が働く『スノーピークおち仁淀川』。店長の佐々木良典さんがこの冬お勧めするアイテムが『FR(ファイヤーレジスタンス)ダウンジャケット 』。街着としてもスタイリッシュなジャケットで、冬のキャンプ場での快適な夕べを約束してくれます。そして、焚き火のそばでも安心。表面の生地は、焦げ穴ができ難くい難燃性素材です。

■スノーピークおち仁淀川ではスタッフを募集しています。経験豊富な大槻さんの元で、ラフティングガイドになってみませんか?詳細は、こちらをご覧ください。

(仁淀ブルー通信編集部員/大村嘉正)
●今回の編集後記はこちら