2021.01.01「牧野富太郎が見た風景」第4回 極寒の中に咲くバイカオウレン

「牧野富太郎が見た風景」第4回 極寒の中に咲くバイカオウレン

 高知県佐川町出身の世界的植物学者・牧野富太郎(1862~1957年)が見た故郷の風景とともに、その生涯をたどる連載の4回目は、人生半ばに向き合った「左の手で貧乏と戦い、右の手で学問と戦った」日々である。裕福だった実家の没落もあって、植物研究のために金を惜しまなかった牧野は極度の困窮に陥る。牧野博士の冬の時代である。写真は植物採集中の牧野富太郎。牧野は「植物に敬意を払う」として、このような正装で植物採集に臨んだ。カッコイイが、実に贅沢でもある。(高知県立牧野植物園提供)

 牧野がとりわけ愛した花「バイカオウレン」は、早春に小さな白い花を咲かせる可憐な植物である。いや、「あれは花ではない」と牧野博士は諭すだろう。5枚の白い花弁に見えるものは、正確には萼片(がくへん)である。
 佐川町にはバイカオウレンを大切にしている町民たちがいて、2月半ばになると、その群落を愛でようと多くの人が訪れる。佐川町中心部にある「牧野公園」を訪ねたのは昨年12月20日のことだった。
 「もうバイカオウレンが咲き始めていますよ」と知らされて、半信半疑で寒風吹きすさぶ牧野公園を歩く。土曜日だが、人はいない。花の少ない季節であるから、鮮烈な赤色のナンテンやセンリョウ、マンリョウの実が際立っている。私たちがバイカオウレンの花に魅せられるのは、この花の少ない色のない季節にあって、真っ先に春を告げようとする健気さにあるのだろう。それにしてもまだ早過ぎるのではないか。牧野公園には牧野富太郎の墓があり、その近くにバイカオウレンの群生地がある。そこに向かった。

article236_01.jpg 寒風吹きすさぶ牧野公園で鮮やかな赤の色彩を放つセンリョウ。

 1933(明治26)年、牧野は東京帝国大学の助手として初めて正式採用された。31歳になっていた。つまりそれまでは給料をもらわず大学の植物学教室に出入りしていたのだ。しかし月給は安かった。月額15円。当時の米の値段から考えれば15万円である。

 〈大学へ奉職するようになった頃には、家の財産も殆ど失くなり、家庭には子供も殖えてきたので、暮らしはなかなか楽ではなかった。私は元来鷹揚(おうよう)に育ってきたので、15円の月給だけで暮らすことは容易な事ではなく、止むなく借金をしたりした。借金もやがて二千円余りも出来、暮らしが面倒になってきた〉「講談社学術文庫『牧野富太郎自叙伝』より」

 牧野家は子だくさんで13人いたこともある。そして植物研究のために金を惜しまない牧野は、植物に関連する書物をためらうことなく書店で買い求めた。それがどれだけ膨大なものではあったかは、高知市にある高知県立牧野植物園の「牧野文庫」で実感することができる。牧野博士が亡くなってから高知県に寄贈された約5万8千点の蔵書を収めている一室だ。寄贈される際に蔵書を整理していた人が、その全書物の価格を聞かれて「1億円」と答えたというエピソードも残っている。1960年当時の「1億円」である。

 若いころには佐川町の裕福だった実家からの仕送りがあった。しかし実家の商売も没落して、それが途切れてしまう。たちまち困窮した。ついには妻の寿衛(すえ)が、待合(まちあい)と呼ばれた当時の高級料亭のようなものを営むことにもなった。大学の先生の妻がそのような店をすることに批判もされたという。

article236_02.jpg経済的に困窮していたころと思われる時期の牧野富太郎と苦労をともにした妻の寿衛。(高知県立牧野植物園提供)

 牧野54歳。困窮極まった。

 〈大正五年の頃、いよいよ困って殆ど絶体絶命となってしまったことがある。仕方がないので、標品を西洋へでも売って一時の急を救おう―こう覚悟した〉「同自叙伝」

article236_03.jpg牧野はすでに高名な植物学者として知られていたが、経済的には苦労し、追い出されるように引っ越しも重ねたという。(高知県立牧野植物園提供)

 標品とは何か。それは「植物標本」である。植物分類学者にとって、各地の野山を歩き採集した植物の標本や、全国各地から牧野博士のもとに送られてきた植物標本たちは、最も貴重なものだった。植物分類学の礎となるものである。もはやそれを売るしかないというほどに追い詰められていた。
 すでに牧野は高名な植物学者であった。朝日新聞に論説記事を書いていた農学士の渡辺忠吾は植物学者の窮状を紙面で訴えた。「篤学者を困窮の中に置いて顧みず、国家的文化資料が海外に出されるようなことがあれば国辱である」。
 これを受けて1916年12月18日の大阪朝日新聞も、以下のような見出しで報道した。
 〈月給35円の世界的学者。金持ちのケチン坊と学者の貧乏はこれが日本の代表的痛棒なり。牧野氏植物標本10万点を売る〉

 新聞記事を読み、新聞社に青年が駆けつけた。京都大学法学部の学生だった25歳の青年、池長孟(はじめ)である。資産家だった。牧野の植物標本を全て買い取ることで、その散逸を防ぐと申し出たのだった。およそ10万点の植物標本を3万円で買い取った。現在の価値で、およそ1億円である。
 牧野は青年に救われた。

article236_04.jpg佐川町の牧野公園で早春の花であるバイカオウレンが咲き始めていた。
(2020年12月20日撮影)

 佐川町の牧野公園にある博士の墓石にいつものように手を合わせてから、バイカオウレンの群落地に向かう。
 さすがにまだ花はないように見えたが、よくよく探すと小さな一輪の白い花を見つけることができた。あっ、そこにも、あちらにも。早春の2月に見ごろを迎えるバイカオウレンだが、もうこんな時期から咲き始めているんだ。
 その経済的苦難は牧野博士の冬の時代であった。けれど晩年の春のような充実した日々は、冬のあいだの雌伏のときでもあったのだろう。新たな年のバイカオウレンの白い花の群落を想いながら、牧野公園を後にした。

(高知新聞社学芸部・竹内 一)

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「龍馬はこの道を通って脱藩した? 朽木峠へ古道歩き」をお届けします。
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