2020.10.09「牧野富太郎が見た風景」 第3回 博士命名の秋の花々を愛でて

「牧野富太郎が見た風景」 第3回 博士命名の秋の花々を愛でて

 野山を歩き、草花を愛でる。そんな散策にふさわしい季節が巡ってきた。高知県佐川町出身の世界的植物学者・牧野富太郎(1862~1957年)の生涯を、その故郷の自然とともにたどる連載の3回目。牧野は青年期から壮年期を迎えて目覚ましい活躍をみせる。辺境の地から突如やってきた青年が、近代日本における植物分類学の礎を築いていく痛快な物語でもある。
※写真は東京大学理学部植物学教室の助手室での牧野富太郎(高知県立牧野植物園所蔵)


article230_01.jpg 高知県佐川町にある牧野公園のあちらこちらで咲くヒガンバナが秋の訪れを告げている。

 夏の名残をはらんだ日差しはあるものの、木陰に入れば半袖では肌寒いような秋晴れの好日である。佐川にある牧野公園では、あちらこちらに彼岸花が立ち上がって、その鮮烈な赤で秋の到来を高らかにうたっているかのようだ。

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 佐川から上京した牧野は、東京大学理学部植物学教室にもぐりこんだ。東大の入学試験を受けたわけでもなく、「土佐からやってき異様に植物に詳しい青年」として、出入りを許されていたのだ。まだ時代も寛容だったのだろう。
 すぐに牧野は「本当の学生」たちと仲良くなる。互いの下宿を行き来し、植物採集にも一緒に出かけた。そうしたつきあいの中から「本格的な植物の雑誌を作ろう」という話が持ち上がる。東大の教授も彼らに賛同して、植物学会の機関誌として「植物学雑誌」が1887(明治20)年に刊行された。牧野も東大の友人たちと論文を寄せた。

article230_02.jpg牧野博士命名のマツカゼソウ。可憐な小さな花にも虫たちが蜜を求めてやってくる。

 しかし牧野の思いは論文ではなく「図鑑」にあった。当時の日本に本格的な植物図鑑はなかった。牧野は植物図を得意とした。彼が描く精緻な図に周囲の人たちも驚嘆した。問題はこの植物図をどうやって印刷するかだった。なんと彼は石版印刷の機械を自ら買うばかりでなく、石版を手掛ける東京の印刷屋で1年間働いて、技術を習得するのだ。
 そうして発行されたのが「日本植物志図篇」第一巻第一集だった。牧野はつづっている。

 〈私の考えでは図の方が文章よりも早わかりがすると思ったので、図篇の方を先に出版したわけであった。この第一集の出版は、私にとって全く苦心の結晶であった。日本の植物誌をはじめて打建てた男は、この牧野であると自負している〉
(牧野富太郎自叙伝「講談社学術文庫」)

 後年の回想で誇らしげに語る。東大の先生も〈今日只今、日本帝国内に、本邦植物図志を著すべき人は、牧野富太郎氏一人あるのみ〉と賞賛した。

article230_03.jpg壮年期の牧野富太郎。牧野は植物への敬意として、しばしばこのような正装で植物採集も行ったという。(高知県立牧野植物園提供)

 さらに世界的発見があった。28歳の牧野は、東京と千葉を流れる江戸川のそばを歩いていた。ヤナギの実の標本をとることが目的だったが、用水池にある異様な水草のようなものが目に止まった。東大の植物学教室に持ち帰って調べると、それが希少な食虫植物であることがわかった。当時は欧州、インド、オーストラリアの一部のみで確認されていたものだった。これが日本にもあることを発見したのだ。牧野はこの奇妙な食虫植物の和名を「ムジナモ」と名付けた。
 「ムジナモ」発見の前年にも、牧野は大きな仕事を成し遂げていた。連載1回目でも紹介した「ヤマトグサ」の発見、命名である。これまで日本の植物学者たちは新種の植物発見を海外の学術雑誌を頼って発表していたが、牧野たちは日本の「植物学雑誌」でこれを初めて発表したのだった。
 牧野の大志は「日本の全ての植物を分類整理する」ことにあった。そのためには植物採集というフィールドワークが欠かせない。壮年期の牧野は東大植物学教室にとどまらず、北海道から鹿児島まで日本各地の野山を歩いた。東大における牧野のいわば非公式な立場が、むしろ行動の自由を許した。植物採集には地元の植物愛好家の人たちの協力も欠かせない。各地の人たちは、東大の牧野先生がやってくることを喜んだ。

 〈私は日本全国各地の植物採集会に招かれて出席し、地方の同好者、学校の先生等に植物の名を教え、また標品に名を附してあげたりした。私の指導した先生だけでも何百人といる筈だと思う。だから文部省はこの点で私を大いに表彰せねばいけんと思う〉(同自叙伝)

 このようにして牧野は全国の植物愛好家たちと親しくなっていった。牧野自身も精力的に各地で植物採集を行ったが、各地の愛好家たちからも多種多様な植物が牧野の自宅に送られてきた。こうやって築き上げたネットワークによって、牧野の植物分類学の集大成ともいえる「牧野植物図鑑」の刊行につながっていく。

article230_04.jpg牧野が命名した「ジョウロウホトトギス」の花が咲き始めていた。

 牧野富太郎が亡くなってから60年あまり。その生家に近い牧野公園には牧野博士命名の植物たちが花を咲かせている。
 牧野が発見し、その和名を付したジョウロウホトトギスの花も咲いていた。
 「上臈(じょうろう)」とは、さまざまな意味を持つが、牧野は「貴婦人」という意で使った。
 どこか高貴な感じもする黄色の花は、上向きではなく、下向き加減に咲く。その様子がおしとやかさも感じさせるのであろう。
 牧野公園のジョウロウホトトギスは咲き始めだった。連載が配信されるころにはちょうど見ごろになるのではないか。
 牧野富太郎の青年・壮年期の活躍は華々しいものであったが、しかし一方で極度の経済的困窮、そして東大アカデミズムとの確執もあった。次回はそのことを紹介したいと思う。
 ジョウロウホトトギスの花言葉は「あなたの声が聞きたくて」だそう。

高知県立牧野植物園

(高知新聞社学芸部・竹内 一)

号外!

仁淀川移動水族館がイオンモール高知に出張展示!?


article230_05.jpg左から、仁淀川移動水族館の生みの親、児童文学作家・阿部夏丸さんと日本野生生物研究所長・奥山英治さん。右はアシスタントの坂本佳哉くん。

 仁淀川生まれ、仁淀川育ちの魚やカメや水生昆虫たちが「イオンモール高知」の屋内イベント広場に出張し、訪れた高知の都会育ちの(笑い)家族連れや子供たちの度肝を抜きました。じつはリニューアルオープンした「イオンモール高知」の記念イベント「高知の自然に触れよう!~高知ワクワク自然フェスタ」に「仁淀川移動水族館」が招待され9月19日、20日の2日間限定で展示を行ったのです。

◆ムギツク、カマツカなど希少性の高い魚たちもイオンモールを初体験


 移動水族館の水槽越しに見えるのはユニクロや無印良品、スポーツオーソリティ、女性ファッションブランドなど流行の最先端を行く大都会から抜け出したショップばかり。一方、「移動水族館」のほうは看板も展示棚もすべて手作り、水槽の中を泳ぎ回るカワムツ、オイカワやイシガメ、ナマズ、ウナギたちは昨日まで仁淀川を泳ぎ回っていた本物の野生児たち。
 都会を象徴するような商業施設と、野生の塊とも言える手作り水族館が同じ空間同じ時間を共有するという画期的かつ違和感丸出しの試みは見事な大成功をおさめたのでした。
 ちなみに高知の都会っ子の人気NO.1、はタッチ水槽のニホンイシガメ。大人たちは食べごろサイズの天然ウナギの水槽の前に釘付けという「なるほど」な結果でした(笑い)。

★次回の配信は10月23日予定。
「まもなく誕生から1周年、日高村のゲストハウス。ここから何かが始まる!?」をお届けします。
お楽しみに!

●今回の編集後記はこちら