2020.04.10仁淀川の早春スペクタクル、アユの遡上が始まってます!
この国ではいまや珍しい光景、しかし仁淀川では普通に観察できるのが、川を遡るアユの大群です。水中から、仁淀川の春をお届けします。
仁淀川で春を告げるものといえばアユの遡上。今年も変わらず、澄んだ流れを賑わせています。まずは動画をご覧ください。
清流の女王・アユは1年で寿命を終える魚。秋に川の下流域で孵化し、海へと下って年を越し、春になると生まれ故郷の川を遡ります。そして中流域で成長し、秋が深まると下流域へと下り、水の通りがいい川底の砂利に産卵して一生を終えます。
日本中の川でアユ漁は楽しまれていますが(主に友釣り)、このように大挙して川を遡るアユの光景、あまり馴染みがないと思いませんか?
実は、日本の多くの川で、水中の生き物はあまり自由に移動できません。堰やダムに行く手をはばまれ、太古から続く自然の営みを強制終了された川は数知れず。
ところで、この撮影現場は仁淀川の下流域にある八田堰(はたぜき)。「堰」なのにアユは自由に遡上していきます。なぜでしょうか。
八田堰が築かれたのは江戸時代の初期、三代将軍徳川家光~四代家綱のころ。目的は吾南地域(仁淀川下流域の東、高知市春野町のあたり)の農業振興でした。八田堰で仁淀川をせき止め、たまった水を取水して用水路に流し、吾南地域を潤したのです。
その建設の指揮をしたのが土佐藩家老の野中兼山。江戸時代初期の土佐藩(高知県)の土木工事の多くはこの人が手がけ、米の増産などに貢献しました。
しかし、過酷な年貢の取り立てなどで領民から恨まれ、ついには罷免されます。その3か月後に吐血して亡くなり、家族は40年間も幽閉されたそうです。男の血統が絶えるまで……高知の黒歴史ですな。
さて、八田堰ですが、その特徴は一目瞭然。多くの堰は川を分断しますが、八田堰はまるで大きな瀬。江戸時代には岩や木で築造されたので、もっと自然の荒瀬みたいだったのでしょう。当然、生き物は堰に妨害されずに海と川を往来できた。
今ではコンクリートなど現代の技術で改修、補強されている八田堰ですが、その「自然の瀬」のような形状により、昔と変わらず生き物にやさしい……と私は永らく信じていました。しかしこの取材で新情報が。そこにはアユを獲って楽しむ人たちの努力があったらしい。
アユを釣って楽しむ人たちが、仁淀川とアユを守る
これだけアユが遡上していると、「獲る人が押し寄せるのでは?」と心配する人もいるでしょう。念のために申しておきますが、八田堰付近は釣り禁止だし、アユはまだ禁漁期間です。しかも、地元民の「アユ愛」は熱く、密漁は即座にばれます。
私が撮影していると、まもなく漁業監視員のおっちゃんが登場しました。「釣りかと思うたきに」「いやいや紛らわしくてすみません」と楽しく談笑。
その後しばらくすると、今度は近所のおっちゃんが。川を遡るアユの様子が気になったらしい。いい川には、このように単に川を見に来る人がいます。彼がこんな話をしてくれました。
「この八田堰は、昔、私が子供の頃(60年前ぐらい?)、傾斜をゆるくしたんですよ。この手前(西岸近く)のほうだけですが、石を入れて、春のアユが遡上しやすいように」。
石を入れる以前は、八田堰の下に溜まったアユをすくい取り、堰の上流へと運搬して放流したこともあるとか。それが今では、「八田堰は大きなコイ(鯉)でも楽に遡っていく」といいます。現代の堰にはない「自然との共生」が八田堰にはあるようです。
八田堰でアユの遡上を観察できるのはだいたい4月末まで。今年は2月ごろから遡上が始まり、3月が一番多く、魚体も大きかったそうです。それでも、まだしばらくは「すごい、大群だ!」と感動すること間違いなしです(ちなみに取材したのは4月5日)。
しかも、地元のアユ好きおっちゃんがふらりと登場して土佐弁で話しかけてくることも。旅人は豊かな自然も、高知人との出会いも楽しめることでしょう。
■仁淀川のアユ漁については仁淀川漁業協同組合ホームページへ。
(仁淀ブルー通信編集部員 大村嘉正)
★次回の配信は4月24日予定。
「牧野富太郎の見た風景」をお届けします。
お楽しみに!
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