2019.01.25<大槻章三郎物語>その2 仁淀川から海外の川へ、その初挑戦はドタバタに!

<大槻章三郎物語>その2 仁淀川から海外の川へ、その初挑戦はドタバタに!

仁淀川に流れ着いたことで「川の民」として生きることになった男は、海外の急流に挑戦するため南半球へ。しかしその道のりは曲がりくねったものに。「スノーピークおち仁淀川」でラフティングツアーを担当する彼に、そのドタバタな旅を語ってもらいました(3回連載の2回目)。

~前回までのあらすじ
 放浪して仁淀川にやってきた大槻青年。その川辺での偶然の出会いから「お客をゴムボートに乗せて急流下りする」という職業を知り、仁淀川と同じ高知県の激流・吉野川で修行を始めます。それから4年、川下りのエキスパートになった彼は、「海外組」になろうとオーストラリアの急流・タリー川を目指すのですが……。


――オーストラリアのケアンズにあるタリー川。まあ、知っているのはラフティング関係者または愛好家ぐらいですけど、なぜその川で働こうと思ったんですか?

大槻:いま思えばデマだったと思うんですが、タリー川で日本人ガイドを募集中だと聞いたんです。それで現地の会社にメールしたんですが、ノーイングリッシュな俺ですから、返事の内容がわからない(笑)。でも、行けばなんとかなるさと、ワーキングホリデービザをとってオーストラリアのケアンズへ。

――まったく英語もできないのに? 無謀ですね。

大槻:タリー川に着いて、日本から連絡していたラフティング会社を訪ねました。そして、責任者らしい女性に英語で「いつのフライトで着いたの? 疲れてない? 」と聞かれたんですよ、たぶん(笑)。当然ながら俺は「え ? 」っていう顔をしました。

――人として自然な反射だ(笑)

大槻:すると、彼女は裏の部屋に引き返して、「誰? 彼を呼んだの。」とか「あんなに英語がわからないのに使えるわけない、帰せ。」みたいなことを言ってるんです。

――英語はわからないけど声の調子でわかったんですね。

大槻:かなりヘビーな雰囲気でしたから。そして本当に帰されてしまった。でも、このまま日本に帰るのはカッコ悪いじゃないですか。だから現地で英語を学んで、タリー川のラフティングガイドに再チャレンジしようと誓ったんです。なにしろ人生で一番くやしかったから。

英語ができないのに、海外で仕事を探す

大槻:とはいえ所持金は減る一方で、日本を出るときに握りしめた約10万円はもう8万円ぐらい(日本円換算で)に。宿代もすぐ払えなくなるだろうし、とにかくお金を稼がなければ。それで、ケアンズで日本人がよくいるオーキッドプラザ(ショッピングモール)へ求人情報を見に行きました。給料をもらえて、住み込みで、英語を学べる仕事を探した。すると、観光牧場の仕事があったんです。

――それは日本人観光客も相手にするような牧場ですか?

大槻:そうなんです、乗馬とか、ATV (四輪バギー)でツアーをするような。フリーアコモデーション(住み込み)で、1日働いたら1500円から2000円ぐらいもらえるし食事も提供される、募集要項が英語で書いてあったので英語も学べるだろう。で、すぐに電話したらうまいことに日本人が出て、俺が「働かせてほしい」と言ったら、「じゃあすぐに来てください。わが社のツアーバスに便乗して。」と。

――働かずしてクビになったり、仕事がすぐ見つかったり、運がいいのか悪いのかよくわからないですね(笑)。大槻さんの行動力あってのことだと思いますが。

大槻:その観光牧場で働きながら、英語を学びました。人生で一番勉強したんじゃないかな。英語が堪能な日本人やネイティブの同僚がいたので、日々どんどん進歩しました。ペラペラにはならなかったけど、3ヶ月でコミュニケーションできるぐらいにはなりました。
 というわけで、タリー川に再挑戦です。英語がしゃべれるようになったからもう一度面接してと。すると、「おお、確かに英語で会話できるじゃないか、来いよ。」となって、ようやくタリー川でラフティングガイド研修が始まりました。で、ガイドのトレーニングを始めて1ヶ月ぐらい経ったころ、また「おまえはもういい、帰れ。」となった。

article171_01.jpg大自然を眺めながらの会話は気持ちいい。スノーピークおち仁淀川キャンプフィールドで、大槻さんは楽しそうに放浪の思い出を語ってくれました。

泥にまみれて働く

大槻:なぜそうなったかというと、ちょっと口答えしたんですよ、その会社の日本人のリーダーみたいな人に。その人にとって返事は「はい。」以外なかったみたいで、次の日にクビになりました。クビっていっても、まだトレーニング生なので、雇われてもいないのですが(笑)。

――なんとも想定外ですね。

大槻:でも、結果的にそれがよかった。あのままトレーニングしていたらわりとすぐにタリー川のガイドになれたし、ずっとガイドとして楽しめたし、ガイドとしていい気になっていたのだと思います。
 しかし、ガイドになれなかったことで、これまでにない経験をすることなりました。ほんと、いろいろあったんですよ。自分はこういう人間なのかとか、どれだけ耐えられるのかとか、こんなことが出来るというのがわかった。ラフティングガイド以外でも、「俺、結構やれるな」ということが。

――もっといい体験が待っていたんですね。

大槻:よかったかどうかは別に、記憶に残ることが待っていました(笑)。とにもかくにもケアンズにもタリー川にも未練はなくなったけど、ワーホリビザは半年以上も残っている、帰国するのも癪だ、なにも成し遂げていない。で、普通にワーホリすることにしました。芋の収穫とか。

――なんですかそれ?

大槻: そこは、いま考えればドヤ街みたいなところでした。仕事を求めている人じゃないと入れない町。バックパッカーズ(旅行者向け安価な宿泊施設)に泊まったら仕事を斡旋されるんです。毎朝バスがやってきます。それに乗って連れて行かれた先で、トマトやスイカの収穫、芋掘りを夜明けから日暮れまでひたすらやる。毎晩、仕事仲間(国籍多様)とバックパッカーズで「きついぜ、つらいぜ、まったくなあ」といいながら同じ釜の飯を食べました。

――それは、最初の目的とは大きくずれているような……。 

大槻:いわれのない差別は受けたし、泥まみれのきつい仕事だし、お金のことで雇い主に騙されるしと、なにかと思い通りにならない日々でした。3ヶ月はがんばったかな。そのころの経験のせいか、俺の英語はちょっと怒り気味なんですよ。給料が足りないぞとか、文句を言うために英語をずいぶん駆使しました(笑)。

――よく耐えましたね。

大槻:でも、いい経験だったと思います。それまで俺は、ラフティングガイド以外の仕事をちゃんとしたことがなかったから。それに、しんどかったことは身になるというか、自分の中に残りますよね。その次の年、俺はニュージーランドでラフティングの仕事をして、それはサクセスストーリーだったんですけど、その記憶はいまいち鮮明じゃない。けれど、オーストラリアでのあの泥にまみれた3ヶ月間のことはいくらでもしゃべれます(笑)。

article171_02.jpg急流を下るカヤックから見える景色。大槻さんのこれまでの人生は、ときに荒瀬にもまれる川下りのごとし。

ゴールドコーストで人生大逆転

大槻:きつくてつらい労働でしたが給料はまあまあよくて、貯えもできた。でも楽しくないので楽しいことをしようと南下して、セレブが集まるリゾート地・ゴールドコーストに移ったんです。そこのサーファーズパラダイスという地区で暮らしました。 

――ジェットコースター的なワーホリですね。

大槻:こないだまで泥にまみれていた俺には驚きの、きれいな街でした。この町で、俺はまあまあ英語もしゃべれるようになっていたし、きれいな、ハイカラな仕事をしようと思ったんです。見つけたのが、ジェットスキーやパラセーリングなどアウトドアレジャーのガイドの仕事。ラフティングガイドをしていたので、自然体験のツアー仕事は余裕でしたし、給料もかなり良かった。
 最高の日々でしたよ。スケボーで海辺の遊歩道をマリーナまで行けばそこが職場です。ゲストを船で無人島へ連れて行ってデイキャンプしたり、卒業旅行の女子大生グループをガイドしたときには馴染みの食事処を紹介してあげたりして、ときには「ディナーをご一緒にどうですか」とか。休みの日に海辺に行けば、ビーチバレーの女の子たちに「バレーしない?」と誘われたり。

――ちょっと前まで悪態をつきながらスイカを収穫していた男が……人生何があるかわからないですね。

大槻:この世の春でした。仕事前と仕事終わりはサーフィン、マリーナでキラキラした仕事をして、女の子と食事して。青春みたいなもんです。ただただ楽しくて、お金も貯まりました。そして仲間と一緒に、安く手に入れたステーションワゴンでサーフトリップに出かけました。1ヶ月半ぐらいかな。ゴールドコーストはオーストラリアの東海岸ですが、そこからに西の果てのパースまで。めちゃめちゃ楽しかったですよ。でも俺の場合、楽しかったことは記憶に残らない(笑)。
 で、パースに着いたとき車が壊れて、ちょうどワーホリ期限の1年を迎えこともあり、帰国することにしました。日本は春で、俺は23歳になっていました。

世界へ再挑戦、そして新たなる試練へ

――その後、大槻さんはニュージーランドに行きましたよね。
 
大槻:そうなんです。ほぼ無一文で帰国したので、すぐに大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)に戻ってラフティングガイドをしていたのですが、その年の秋ぐらいに、「あれ、俺、外国でラフティングガイドをしていないぞ。」と気づいた(笑)。で、今度はニュージーランドに行こうと。自然大国で、子供のころから憧れていた国です。
 さすがにタリー川の二の舞はご免なので、ニュージーランドでのガイド経験があるラフティングの先輩たちにいろいろ聞いて準備しました。わかったのは、ニュージーランドって「紹介状」をすごく大切するらしいってこと。「こいつはいいやつだ」という担保が必要なんです。例えば会社を辞めるとき、円満退社なら紹介状を書いてもらえる。紹介状を何通持っているかが、就職するときの担保になる。そして知り合いの紹介というのも、とても重視されていました。
 そういうことを学んで、ニュージーランドで長年ガイドしていた仲間に紹介状を書いてもらって、川でのガイド履歴の書類も作って、事前にメールで意思疎通してと、ちゃんと就職活動しました。 そうして現地に行ったら、「ハロー、お前がサブだな。」とにこやかに出迎えられて、あとは上手くいきすぎてあまり覚えていない(笑)。住む家も、中古だけど車も用意されていて、ルームメイトのピートはすごくいいやつだし、最初から最後まで困ることは一つもなかったです。ただただ美しいカイツナ川でラフティングやカヤック、ニジマス釣りをする日々でした。

――だからあまり語ることがない(笑)

大槻:オーストラリアでの芋掘りのことならいくらでもしゃべれます(笑)。

article171_03.jpg人口約480万人と、四国四県の人口+100万人ぐらいというニュージーランドで、カヤックはポピュラーなスポーツ。人跡稀な山奥の渓谷までヘリコプターで運んでもらい、川を下ることも珍しくない(画像は桂川輝彦氏より)。
article171_04.jpgカヤックはこれぐらいの滝を下るもの、というのが普通の認識になっているのがニュージーランドだ(画像は桂川輝彦氏より)。

――さて、ニュージーランドから帰国した時点で、大槻さんの人生も一段落という感じでしょうか。そしてついに、フリースタイルカヤック世界第二位の栄冠まで一直線ですか?

大槻:それがですね、ツイているというか、なんというか、俺の人生、いいタイミングで試練が来るんです……(2月15日配信記事に続く)。


スノーピークおち仁淀川

(仁淀ブルー通信編集部員/大村嘉正)
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