2018.10.19流域6市町村トップ・インタビュー「仁淀川と私たちの町」 仁淀川町編

流域6市町村トップ・インタビュー「仁淀川と私たちの町」 仁淀川町編

仁淀ブルーが生まれるところ、山また山の仁淀川町。焼き畑農業など、山の自然と共に生きた最後の世代がここに。町長の大石さんもその一人なのです。

第5回 「こんな暮らしがあった」を未来へ伝えたい!
仁淀川町長 大石弘秋さん

仁淀ブルー通信編集長・黒笹慈幾(以下、黒笹):流域全体で観光に取り組んでいるのが仁淀川の特徴ですが、上流から河口までかなり長いですし、最上流の仁淀川町と河口の土佐市では、川へのアプローチや考え方が違うと思うんです。仁淀川町は仁淀ブルー観光においてどんな役割を担えるとお考えですか?

仁淀川町長・大石弘秋さん(以下、大石):我々の地域は何といっても水源に位置していますから、森づくりなどを通じて、仁淀川の水質など、自然環境を良好に維持することが大事だと考えています。

黒笹:「仁淀川ブルー観光とは何か」と聞かれたとき、社会的にはっきりしたものが今はまだ見えてこない状況ですが、仁淀川町として「これだ」というのはありますか。

大石:山間の町ですから、山や清流などの自然と、地域で守ってきた伝統文化でしょうか。

article157_01.jpg仁淀川町は清流の宝庫。仁淀川に流れ込む支流はどれも仁淀ブルーそのものの色で、集落の中でさえ美しい流れ。

黒笹:仁淀川町は、昔からの山の暮らしが色濃く残っている地域ですよね。

大石:400年以上続いた神楽や、平家落人伝説につながる集落など、伝統文化や歴史は豊かです。自然の中で営んできた暮らしの記憶というのが、今の時代に、そして将来へも重要になってきていると思います。

黒笹:それから、仁淀川町は素晴らしい景観が特徴です。例えば、山の上へと続く、手入れのゆき届いた茶畑などは、日本人だけでなく海外からの観光客も素晴らしいと感じるはず。景観そのものを観光に使えそうですよね。インスタ映えするポイントを紹介するとか、茶畑を眺めながら一休みできる場所などを整備したら面白くなりそうです。茶業の6次化にもつながっていきます。

大石:そうですね、茶畑の景観利用は伸びしろがありますね。この地域のお茶栽培はいま、若い方が先頭になってがんばっています。茶畑プリンなどの販売を始めたり、地元のお茶(沢渡茶農家)のカフェなどもできました。

article157_02.jpg仁淀川町では茶畑が身近な暮らしの風景になっている。

黒笹:茶畑ってすごい傾斜地ですよね。あそこをぐいぐい登るモノレールがあったら、僕は嬉々として乗っちゃうな。鉄道を敷設するより安いですよ(笑)。モノレールの会社は隣の愛媛県にありますし。

大石:なるほど。ちょっと驚きのアイディアですね。えー、検討事項ではありますね(笑)

黒笹:モノレール宣言をしてもらいたい(笑)。モノレール好きというのはけっこういるんです。全国からお客が来るに違いないんだけどなあ~。

ここから飛び出していく、攻めの観光振興

黒笹:観光客を受け入れるだけでなく、仁淀川町から出向いたことが今年はありました。3月に高知城下で、秋葉祭りの練り行列をやりましたよね。素晴らしいものでしたし、観光のヒントがあるなと思いました。地域の観光コンテンツをたくさんの人に知ってもらう工夫として、都会に近いところでアピールをするのは今の時代に合っていると思います。

大石:実は、あれは大変でした。行列に参加する人だけでも約200人ですし、準備段階からだと相当数のスタッフが必要です。衣装や小道具を揃えて、運搬するのも大変で。

article157_02-02.jpg毎年2月11日に行われる高知県保護無形民俗文化財の秋葉祭り。仁淀川町にはこの他にも、国指定重要無形民俗文化財で400年の歴史がある高知県最古の神楽「池川神楽」や、「安居神楽」「名野川磐門神楽」などの伝統文化が多く残っている。

黒笹:ぜひ東京の人にも見てもらいたいと思いました。仁淀川町への観光客の動員につながる、というのもありますが、それよりもこのような伝統文化の存在を知ってもらうことに価値がある。それを見た人は、いつか現地に行ってみたいと強く記憶するはず。将来の高知観光への布石になる。

大石:今回は、はりまや橋から高知城下まで練り歩いたのですが、商店街の人から「来年もお願いします」といわれました。でも、地域の人口が減っているなか、地元での祭りの維持にも苦心している状態で。

黒笹:そこをあえて仁淀川町から出て、見せて、祭りの継承のピンチだということを合わせて発信していけば、「僕も手伝いましょう」という若い人たちも増えてくるのでは。地域の文化を維持するためには、外部の新しい人へのアピールが必要な時代になってきました。東京への祭りの出張は難しくても、地域の伝統文化について全国レベルで情報発信する工夫が必要ではないでしょうか。いまのところ、秋葉祭りは世代ごとにうまく継承されているようですが。

大石:200年以上にわたって伝統を繋ぐ人が、これまでずっと続いているのが秋葉祭りです。町内外の人たちがたくさん関わっています。

article157_03.jpgこんな気持ちいいテラスでインタビューできるなんて、仕事を忘れそうです。「中津渓谷ゆの森」にて。

山奥の個性的な産業をそのまま見せる観光

黒笹:現在の仁淀川町の人口はどれくらいですか。

大石:5500を切りました。年間180人ぐらい減っています

黒笹:移住者など町外から人を入れて減少率を下げていくと同時に、少ない人数でも文化や暮らしを維持するオペレーションが必要になってきますが、仁淀川町としてはどうですか。

大石:なかなかハイカラのことはできないので、地域でできることを地道にやっています。地域の活動グループが特産物を生かして商品化するなど、いろいろがんばっています。

黒笹:カット野菜工場やCLT(高強度高品質の直行集成板)の工場ができたりと、時代を見据えながら新しい産業も始まってますよね。仁淀川町、結構したたかですね。

article157_04.jpg仁淀川町の池川地区。CLT(高強度高品質の直行集成板)用の製材加工など、製材業が盛ん。

大石:大きなことはできませんが、地域の資源、うちの場合は「森林」や「お茶」などで地道な取り組みをしています、先ほどのカット野菜工場などは、この地域のきれいな水を活用しているのですが、そんなふうに自然環境を活かしたこともしています。急峻な地形の気温差を利用した高糖度トマト、清流の水を利用したマッシュルーム、昔からの段々畑を利用した石垣ハウストマトなどです。自然が豊かで山が深いので、町外の人にはそれがどこにあるのかあまり知られていないのですが。

黒笹:先日、北海道の十勝地方に行きまして、観光の取り組みを視察したのですが、そのなかに「農業ガイド」という人たちがいました。何をやっているのかというと、観光客を案内して契約農家を回り、畑を見てもらい、摘み取り体験などをしているんです。北海道はすごく広いせいか、道民はいつどこで何の野菜を作っているのか案外知らなくて、畑を見ても何を植えているのか分からない人がいる。彼らに野菜の栽培を説明することが、仕事になっている。それを仁淀川町ではできないでしょうか。山の上のトマト農家やマッシュルーム農家を見学してもらい、お土産に産物を買ってもらう。

大石:似たようなところでは、お茶の茶摘み体験はやってもらったことがあります。とても喜ばれました。畑での作業だけでなく、田舎のお爺ちゃんやお婆ちゃんとの会話も楽しかったみたいです。「お婆ちゃんまた来るね」とか。

黒笹:来年の高知県は体験型観光をテーマにしたイベントをするので、風が吹いています。そういう観光メニューを定番化したいですね。仁淀川町での着地型観光にならなくても、高知市内のホテルとタイアップしてでも。

大石:ふるさと納税の返礼品を体験型観光にするのも一つの手かな、という意見もあります。

焼き畑農業を経験した最後の世代

大石:仁淀川町では、現在は川沿いに国道など幹線道がありますが、昔は、人々が行き来した街道は山の上でした。今の幹線道沿いの集落や家は新しいんですね。昔は山の上の集落が栄えていた。この地域には約150の集落が標高100~700mに散在しています。ほとんど平坦地がない地形で、そこでみんな知恵を絞って暮らしていました。

article157_05.jpg仁淀川町に点在する天空の集落。

黒笹:山の上の集落で、自給自足の生活をしていたんですね。

大石:私が子供のころは、人々は山で炭焼きをしたり、ミツマタやコウゾ(和紙の原料になる植物)を植えてました。焼き畑農業もしていました。森を焼いた跡に野菜を植えた。焼き畑は最高なんですよ。肥料はいらないし、野菜は病気にならない。

黒笹:焼き畑農業って、いま流行りのSDGs(※)なんですよね。大石さんも、炭焼きなどを経験されたんですか?

[※SDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)……2015年9月の国連サミットで全会一致で採択。先進国を含む国際社会全体の開発目標として、2030年を期限とする包括的な17の目標(貧困や飢餓をなくす、ジェンダー平等を実現、人や国の不平等をなくす、気候変動に具体的な対策を、海や陸の豊かさを守る、平和と公正をすべての人に、など)を設定。「誰一人取り残さない」社会の実現を目指し、経済・社会・環境をめぐる広範な課題に、統合的に取り組む。(外務省ホームページのからの要約)]

大石:やってました。私は農家の出なので、ミツマタを植えて収穫し、冬の寒い時分に凍える水できれいにして出荷もしました。山の下草狩りも手伝った。それは大変な時代で、当時は中学を卒業すると8~9割が集団就職してましたが、私は林業を学べと農業高校に行かせてもらった。卒業後は地元に戻らなければと思っていたのですが、「高知で頑張れや」ということになって、県庁へ。そして定年を3年後に控えたところで、当時の町の助役に帰って来いといわれて、今にいたっています。

黒笹:県庁ではどういうお仕事を。

大石:林業関係です。

黒笹:高校でも林業を学んだということで、山林の専門家なんですね。お父様は農業をしていたんですか。

大石:農林業ですね。木炭を焼き、ミツマタを栽培し、植林をしていました。

article157_06.jpg昔の山の暮らしの実体験がある政治家は、今では少ないのでは?

黒笹:子供のころから親の山仕事や農業を手伝い、社会人になってからは林業に関わる仕事ですか。ということは、やろうと思えば今でも山仕事ができるんですね。

大石:まあ一通りは。子供のころは、山の頂上まで畑でした。そして山小屋を建てていて、私も小学校のころはそこで寝泊まりしていました。山小屋で暮らしながら炭焼きやミツマタ栽培、植林などの山仕事をしていた。

黒笹:山小屋暮らしを経験されているのですか。それはすばらしいな。

article157_07.jpg画面下の畑の赤紫色の蕪は、仁淀川町の伝統野菜「田村蕪」。これもかつては焼き畑農業によって栽培されていた。

ここには、手作りと支え合いの山暮らしがあった

黒笹:焼き畑農業というのはとても重要な伝統文化だと僕は思っていまして、なんとか継承されないだろうかと願っているんです。どこかにモデル地区をつくって、若い人に体験してもらって、いかに焼き畑が合理的なシステムなのかを分かりやすい方法でみせることができれば、観光にも使えそうです。

大石:仁淀川町では、記録としては教育委員会で残しています。今年も池川の用居(もちい)地区で火入れの許可をもらってやります。昔のように、場所を変えて次から次へと焼き畑を、とはいかないのですが。

黒笹:焼き畑を残すには、経験した人が残っているうちにですよね。大石さんの世代が最後の焼き畑経験者では?

大石:そうです。今年で古希です。70歳。

黒笹:僕よりちょっと上だ。川遊びはしていましたか?

大石:もちろん! 山と川が遊び場だった。親から「草をひけ」とかいろいろ命じられるんですが、それを振り切って友達と川で朝から晩まで遊んで。

article157_08.jpg大石さんも、少年時代はこんな風に川遊びを!?

黒笹:遊び相手はなにでしたか?

大石:アメゴやモツゴ、イダやドンコやウナギでしたね。そこらに生えている竹を切って竿にして、木綿糸を結んで、番線をヤスリがけして尖らせて釣り針にしていました。チャン鉄砲も作った。全部手作りです。

黒笹:そういうのを今の子供に教えると喜びそうですね。

大石:遊び道具などを自分で作るという体験は面白いです。昔は山でターザンごっこしたり、ツリーハウスを作ったりして、みんなが陣地を構えて遊んでました。

黒笹:そんな手作りの時代ということは、地域には桶職人がいましたよね。

大石:どの町村にもいました。年に二回は家々を回って御用聞きしたり。竹屋さんもいた。ザルや家の雨どいなどは竹でしたから。竹がないと生きていけなかった。

黒笹:この地域には、そういうのを体験し、記憶の中にとどめている人がまだ残っているんですね。そういうのを観光的な視点で体験型におとせないかな。

大石:昔を振り返ると、お金がいらないように地域の人々が力を合わせていく生活だったなと。例えば昔は茅葺の家でしたが、家を建てるときや、何年かに一回屋根をふき替えるときは地区で協力した。山には地区で共同の茅場(かやば)があって、屋根の材料はそこから採っていた。結婚式や葬式のときは、料理からなにから全部地区の人が当番をきめてやってました。それはうまくできていました。

article157_09.jpg仁淀川町桜地区にある「ひょうたん桜」の幹。山の自然への信仰を彷彿とさせる。

黒笹:そういうコミュニティーの力が、生きていく上で必要だったんですね。

大石:みんなで支え合っていました。物を売るとかではなく、物々交換でした。お金じゃなく、物が大切。そういう時代です。

黒笹:僕はそういう時代を見に行きたいんです。タイムマシンがあればなあ。

大石:盆や正月、祭りにはみんなが集まって、そのときは白米を食べました。普段は麦やキビでした。忙しくて厳しい暮らしでしたが、そんな日はみんなゆったりとくつろいで。卵焼きなんて祭りのときしか食べられなかったし、巻きずしなんか、たいへんなものでした。映画がきたら、みんなで楽しんだ。地区に、「映画が来たぞ」と知らせるのはちんどん屋でした。電話もない時代でしたから、広く伝えるにはちんどん屋しかなかったんですね。

黒笹:そのような経験をされたことは貴重です。

大石:私が子供のころに経験したようなことを、いまの子供たちにもやらせたいですね。「危ない」とかが先にあって、なかなかやりにくいんですが。私らは、川遊びに親がついてくるなんてなかった。年上の子が、安全に川や山で遊ぶ方法を教えてくれました。それがずっと続いていたのですが、我々の世代が最後でしょうかね。生活様式が全く変わりました。

黒笹:体験型観光で、そんな経験や文化を伝えられるといいですよね。今日はありがとうございました。昔の山の暮らしのことを、またぜひ伺わせてください。

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今回のインタビュー取材でお世話になった「中津渓谷」ゆの森。驚異の渓谷風景に感動した後は、温泉と美味しい食事を堪能できます。

(仁淀ブルー通信編集部員 大村嘉正)
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