2018.09.21<清冽な仁淀川を生み出す源の森たち>3 笹倉湿原(さぞうしつげん)

<清冽な仁淀川を生み出す源の森たち>3 笹倉湿原(さぞうしつげん)

四国のほぼ中央部に位置する石鎚山系には、東部の剣山系と並んで四国の森の中でも規模の大きな森が広がっている。原生的な森も多く残っていて、樹齢何百年というような樹々が、その険しく雄大な山地に鎮座している場所もかなりある。
今回はそんな石鎚山系の深山幽谷の森の中、苔と静寂に包まれてひっそりと佇んでいる神秘的な場所、「笹倉(さぞう)湿原」を訪ねてみた。
湿原を覆い尽くすウマスギゴケがこの場所の特徴で、周回は200mには満たないくらいの規模だが、緑色に発光するかのように湿原が輝いていて、別名「神の庭」と言われている。鬱蒼とした森を抜けた先に突如として出現するこの風景には、まさに神が宿っているかのよう。

※上の写真はウマスギゴケに覆われた神秘の池「笹倉湿原」。

article153_01.jpg県道12号線沿いを流れる面河川の峡谷
article153_02.jpg面河川の源流部付近は険しいゴルジュが多い

「笹倉湿原」の所在地は?・・・と訊かれるとなかなか説明しづらい。というのも、最近までは所在を示す道標もなく、ただ赤いテープが所々に付けられているだけという、ほんとうに「知る人ぞ知る」的な秘密めいた場所だったからだ。最近でもさほど変わりはないが、ひとつだけ道標ができたことと、赤テープの存在が随分とわかりやすくなったので、山登りの経験があれば迷わずに目的地に辿り着くことができるだろう。
 大まかな感じで言うと・・・国道33号線から面河川(おもごがわ)に沿って上り、「石鎚スカイライン」途中に車を置いて山中に分け入る・・・といった感じだろうか。
 スカイラインの道中では無名の滝や石鎚山の全容も見ることができて、この山系の奥深さをうかがい知ることができる。

article153_03.jpg道路脇に落ちる無名の滝
article153_04.jpg雄大な石鎚山の山容

article153_05.jpg廃れた作業林道をしばらく歩く。倒木や落石が多数あり、車では入ることができない。

article153_06.jpgモミの倒木に生えたサルノコシカケの幼菌。どういう訳か大体汗をかいている。
article153_07.jpg同じくモミの倒木に芽生えた3年生のミズメの幼木。日が当たらないので育ちが遅い。

 笹倉湿原は、高知・愛媛の県境に聳える「筒上山(つつじょうざん・1,860m)」から流れ下っていて、面河渓(おもごけい)から分かれた大支流「金山谷」の源頭にある。湿原があるのは筒上山から西に延びる県境稜線の北側、標高1,400mあたりの平坦な場所だ。切り立った稜線付近にこんな場所があるのは実に興味深い。
 スカイライン途中にある駐車スペースに車を置き、金山谷沿いに伸びている廃れた作業林道に入る。入り口には鎖が張ってあるが、随分と前から使用されていないこの林道は、植物が茂ったり倒木が道を塞いだりしているので、鎖がなくても車で入ることはできない。
 林道を20分ほど歩いた所から湿原へと続く尾根に沿って登ってゆく。登り口には「笹倉湿原」と書かれた標識がある。しばらくはウラジロモミやツガの林立する植林混じりの尾根を行くが、中には樹齢200~300年の大木も立っていて、その容姿には圧倒される。

article153_08.jpg尾根筋に立っているウラジロモミの大木。胸高周囲は4mくらいはある。
article153_09.jpg登り始めの尾根付近の林床は、ツルシキミで覆い尽くされている。

 しばらくは乾燥した尾根道を歩くが、やがて道が小さな沢を渡った所から、あたりの風景は湿潤な森の様相になる。ブナやヒメシャラ、サワグルミやアサガラなどの落葉広葉樹が森を形成し、林床にはいろんな植物が花を咲かせる。そこを流れる空気も湿潤で緑の香りが強い。立ち止まって深呼吸をすると、適度な湿度とともに肺の中が緑の匂いで満たされる。穏やかな波動で身体中が包まれてとても心地いい。
 あたりの山腹からは至るところで水が染み出し、小さな流れを作り始めている。金山谷の出発点を感じさせる風景だ。

article153_10.jpg道が沢を渡るあたり。大きなサワグルミの根を洗うように美味しい水が流れる。

article153_11.jpgテバコモミジガサ。普通のモミジガサより小ぶりで成育する場所も少ない。
article153_12.jpg四国ではお馴染みのオオマルバノテンニンソウ。深山の谷縁に群生する。

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ミズナラの立ち枯れに生えたナラタケ(左)とブナの根元に群生したトンビマイタケ(右)。どちらも食用キノコとしては一級品で、もちろん適度に持ち帰って鍋と天婦羅で美味しくいただいた。

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あちこちに小さな沢が流れ、そこには貴重な天然のワサビが成育している。芋の部分は程よい大きさの物を三分の二ほどいただき、後の葉付きの部分は元の場所に植える。芋はよほど条件が良くないと大きく育たないので、もっぱら葉の部分を食用にすることが多い。

 いつの間にか傾斜は緩やかになり、林床は笹に覆われる。いつもの見慣れた四国山地の森の風景である。とは言っても近頃では鹿の害によって林床の笹は無くなりつつある。特に四国の東部では壊滅状態になってきているので、この風景はたいへん貴重である。笹の中には巨大なブナも立っている。平坦な場所に立つこのブナの姿は美しく、いつも見惚れてしまう。全体のバランスが良く堂々としていて、何百年を生き抜いてきた、まさに森の生き証人である。

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道程半ばに立つブナの巨木。幹回りは3mを超えるだろう。左側に伸びた直径80cmほどの大きな枝が折れていた。左の写真は2016年撮影。右がこの夏撮影したブナ。傷口を見ると腐り落ちたのではなく、おそらく大風によるものだろう。まだまだ元気だった。このまま生き抜いてほしい。

article153_19.jpg森の中に突然現れたヒメシャラの群落。四国では何箇所かあるが、珍しい。
article153_20.jpgヒコサンヒメシャラの落花。透けるような繊細な花弁が苔に溶け込んで輝いていた。

article153_21.jpg深い森の中に突然現れる「笹倉湿原」。苔の緑が蛍光色に輝いて美しい。

 陽の差し込まない、夏の鬱蒼とした広葉樹の林を進んでいくと、目の前の視界が急に開けて明るくなる。樹々と笹の向こうに突如として現れたのは、緑色に輝きを放つ「笹倉湿原」である。
 湿原の形はほぼ円形で直径は大体40~50mほど。蛍光グリーンに輝くウマスギゴケの広大な絨毯の真ん中付近に水が溜まっていて、その周りを笹が取り囲んでいる。周囲に物音はなく、あまりの静寂さに自分の心音が聞こえてくるようだ。その光景を眺めていると、時間も空間も止まったような感覚になってくる。まるで次元の違う世界にいるようだ。そう、ここはまさしく「神の庭園」なのだ。
 しばらくはその別世界に心を入り込ませて陶酔していたが、ふと我に返って水面に目を落とすと、そこに映り込んだ夕雲が黙々と湧き上がり、巨大な積乱雲へと成長していた。夕立がくる前にそろそろ山から降りることにしよう。その神聖な風景をいつまでも感じていたかったが、今日は簡易の雨具しか持ってきていない。「今度来る時は湿原の辺りにテントを張って、水面に映った星でも眺めようか…」笹と広葉樹の中を縫い下りながら、一人にやにやと想像していた。  

article153_22.jpg増水時の湿原。豊かな水面に雲が流れてゆく。
article153_23.jpg緑色に輝くウマスギゴケ。文句なしに美しい!

article153_24.jpg湿原に横たわる倒木。ずいぶん前から姿が変わらない。水温が低く、分解する微生物が少ないからか。
article153_25.jpg源頭の山「筒上山」にガスが懸かる。やがて雨になり、森に染み込む。

(天然写真家 前田博史)
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