2017.12.22天空の山里に伝わる、赤いかぶ

天空の山里に伝わる、赤いかぶ

仁淀川町の山里で昔から栽培されてきた田村蕪(たむらかぶ)。おそらく江戸時代からあるこの伝統野菜を、後世へ残そうという活動が始まっています。しかし、残すといっても、ただ毎年植えて収穫すればいいというわけではないらしい。さて、どういうことなのか?

 ひょうたん桜が自慢の仁淀川町桜地区。咲けば多くの人が集う樹齢約500年の桜ですが、冬将軍が到来したこの日、それを見上げているのは私だけ。冷たい空をつかむように広がる枝からはすっかり葉が落ち、暗く沈んだ色彩でした。しかしそれとは対照的に、この山里の畑で青々と葉を茂らせ、鮮やかな赤紫色を身にまとう野菜があります。

article114_01.jpg冷たい山の風に耐えるひょうたん桜。

 それが田村蕪。ひょうたん桜がまだ若いころから栽培されていたらしい在来種の赤かぶで、仁淀川町の伝統野菜であります。
 桜地区で暮らす金尾大蔵さんは、その田村蕪を栽培している数少ない農家の一人。
「昔、このあたりでは焼畑農業をしていました。山を切り開いては焼き、キビやアワ、ミツマタを植えていた。私が子供の時分でも、1回か2回は焼畑をしていたと思う。爺さん婆さんにつれられて、キビやアワを収穫したことを憶えちゅう。」

article114_02.jpg金尾さんの田村蕪畑。

 焼畑農業というのは、森林や荒れ地などに火を放って焼き払い、焼け残った草木や灰を肥料にして作物を栽培する農業。土の栄養分が減少してくるとその農地での耕作をやめ、別の土地を焼いて農地にします。耕作をやめたあとは自然のままにまかせて放置、草木が戻ってきたら焼いて再び農地に、という循環的な農法で、日本では縄文時代から行われていました。田村蕪は焼畑農業の産物の一つで、仁淀川町の田村地区(桜地区から山を下った土居川そばの集落)を中心に江戸時代から栽培されていたそうです。

article114_03.jpg金尾大蔵さん。

「田村蕪は12月中頃から1月いっぱいが収穫期。酢かぶ(甘酢漬け)にしたり、短冊形にきってクジラ肉と一緒に炒めるというのが、この地域での昔ながらの食べ方。漬物にしても美味しいけど、長持ちはせんかったなあ。」
 味噌汁や浅漬けなども定番で、生でサラダにしても美味しいそうです。でもあまり知られていないのは、その多くが自家消費されていたから。市場にたくさん出回るほどではなかったようです。
 いまでは過疎化の影響もあり、田村蕪の生産量はさらに減少。そこで、この伝統野菜を未来へ伝えようという有志が『田村蕪式(かぶしき)会社プロジェクト』なるものを立ち上げ、その栽培や販売、ワークショップなどを行っています。プロジェクトには『蕪主(かぶぬし)優待事業』もあり、蕪主(出資者)には蕪主優待として田村蕪を含む仁淀川町特産品詰め合わせが送られてくるそうです。金尾さんはその活動に賛同、見晴らしのいい山肌の畑で田村蕪を栽培しています。

article114_04.jpg金尾さんの畑があるのは標高350m。冬には雪が積もることも。谷の向こうにも、同じような天空の集落が。

「暇つぶしですから」みたいなことを金尾さんはいいますが、田村蕪の栽培では彼の記憶があてにされたようです。
「4年ぐらい前です。農業改良普及所の人が仁淀川流域の各集落から田村蕪の種を集めてくれて、金尾さん、ちょっとやってみてくれんか、となった。それを自分が試験的に畑に植えたところ、いろんな形の田村蕪ができた。」
 アブラナ科全般にいえるのですが、田村蕪も雑種ができやすい植物。仁淀川流域のいろんな田村蕪のうち、どれが本来の姿なのか。頼りは、ずっとこの地域の山里で暮らしてきた金尾さんでした。そして、彼の記憶に合致する田村蕪の種が選ばれ、栽培が始まったのです。

種を残していくのが一苦労

article114_05.jpg金尾さんの農機具。

 田村蕪は冬野菜だし、一つが2~3kgになるため、収穫が一苦労だといいます。
「ひやい時期やろ。1本1本ひいてハケで優しく水洗するのがたいへん。年寄りにはこたえる。指が凍えて軽トラのエンジンのキーをまわせんようになったことも。雪をかきわけて田村蕪をひくこともある。」
 栽培が始まるのは例年8月の終わりごろ。苗床に種をまき、1ヶ月ぐらいで蕪は手の指先ぐらいの大きさになります。
「早く太って活きがよさそうなのは、たいてい雑種です。」
 そのなかから良さそうなものを選んで畑に植え替え、太らせていく。2kgぐらいの大きさになったら、これぞ田村蕪という姿のものをいくつか選抜、種採取用の田村蕪として、別の畑に移植します。そして1m50cm位に幹が伸びて花が咲くころにはネットで囲い、他のアブラナ科の植物の花粉がつかないようにするそうです。
「種を確保するのも苦労。雑種をつくらないようにするのが難しい。まわりに白菜や菜の花があるとダメで、少なくとも50mは離れていないとまずい。」
 田村蕪が仁淀川町のような山深い里で残ってきた理由が、わかった気がしました。ふもとの平野など畑作が盛んな地域では、様々な作物と交雑して、姿が変わってしまうのです。

article114_06.jpg冬の畑を彩る田村蕪。

 山の暮らしがあってこその田村蕪。けれども、日本各地の中山間地と同じく、桜地区も過疎化がすすんでいます。
「この地区の現在の平均年齢は80歳ぐらい。人口は9戸で18人。自分らが子供のおりは28戸で150人近くが暮らしていて、子らも多くて賑やかでした。」
 焼畑農業の時代から、高性能カラオケ機械が自宅にある時代まで――金尾さんは素晴らしい歌声の持ち主なのです――を生きてきた金尾さんに、これまでの人生を少し語ってもらいました。

田村蕪を育んできた、山里の暮らし

「自分は、爺さんと婆さんにおおかた太らせてもらった。親父がおらんかったけんね。跡をとって百姓をしたんで、ずーっとここで暮らしてきた。いま75歳。子供の時分は、学校行くのに土道の山道を4㎞ば歩いて行きようりました。そのころはミツマタの栽培をしている人が多かった。そして20歳のころは養蚕が盛んになった。たいていの家では肉牛も飼っていた。今じゃあ一頭もおらん。うちは種牛を飼っていて、自分は20代の頃、越知や佐川など仁淀川流域で牛の種付けをしていました。そのころからお茶の栽培をする人が増えた。種付けの仕事がだめになると、ダンプで建材を運ぶ仕事を40~60歳ぐらいまでやっていました。その合間にぼつぼつと野菜をつくったり。家の池で、品評会に出るような錦鯉を育てたこともある。70cmぐらいの親鯉がいい子を産んでくれて、それを結構な値段で買ってもらいましたよ。」

article114_07.jpg金尾さんが暮らしてきた桜地区

 この天空の山里で暮らしていくには、いろんな能力と行動力が必要、ということでしょうか。それを大変だと思うか、充実していると感じるか。都会での暮らしとはまた違った人生の尺度がここにはありそうです。
「そしていまは田村蕪をつくっています。人生の楽しみとしてやっています。毎日に張り合いができますし」と金尾さんは言うけれど、それだけではないのでしょう。彼は、爺さん婆さんが田村蕪を植えて、太らせていたのを見てきた。そして、「これぞ昔ながらの田村蕪の姿」を憶えている一人なのですから。

article114_08.jpg田村蕪に興味を持った方には、以下のリンク先がおすすめ。

田村蕪式会社プロジェクトのフェイスブック

によどの(田村蕪式会社プロジェクトの運営団体)

(仁淀ブルー通信編集部員 大村嘉正)
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